四柱推命の古い文献を現代人にフィットさせるものは、もう凄い!という他ないほどですが、そもそもの四柱推命のスタンスは、あまり歓迎できるものではないと感じています。
古書にも、いわゆる優れた命造には手放しで絶賛を送り、低い造りに対しては、「取るにたらない」とか、見下すというか、そういう世界観です。
命造、運程の高低を明言していることは、研究する側にとってはわかりやすいですし、勘が養われるのは確かです。
ですから、頭の中だけでは、その辛辣な差別ともいうべき鑑定法を淡々と咀嚼することに徹しています。
でも、入口だった算命学では、確かに精度はかなり劣りますが、基本的には、改良法を探るという姿勢を長年身に着けてきましたので、今でも、「ではどうすればいい方向に持っていけるのか」ということに自然に向かうようです。
ない星を活かす、その方にとって大切な「ない星」を生み出すような生き方、なんてアドバイスもそういう感じです。
ですから、意外と命造に問題点のある方が、人知れず血の滲むような努力を続けて、成功するということもあるわけです。
でも、命造、運程の高低、時期的な吉凶は、確かにあって、まずはそれを虚心に自覚するというのも、救いにちがいない・・・と近頃は思います。
「分を知る」「己を知る」ということでもありますが、それによって「どうせ、この程度さ・・・」と言って、後ろ向きになるのも人生だし、「そうか、社会的な名誉にはあまり縁がないことはわかった、じゃあ、こういう生き方で生き切ってみよう」などとプラスに切り替えていくのも人生ですから。