「君の名は。」 観てきました!

2016年10月25日

Category : My Diary

転居も漸く落ち着いて来ました。

いろいろご心配をお掛けしておりましたが、おかげさまで穏やかな海路日和となって来ました。

来月初めには、再開の予定です。
一昨日の日曜日・・・

折からの風邪がすっきりしてなかったのですが、新海誠さんの「君の名は。」を観に行って来ました。

そろそろ上映も終わってしまうかもでしたし・・・

とにかく映画館で観ておきたかったものですから。

10代、20代の若者が多いと聞いてましたし、60代夫婦が観に行くには少し勇気が要りましたが・・・

昭島モリタウンまで、

マスクをして呼吸を楽にして・・・

体調不良で頭もぼ~っとしてましたので、展開に付いて行こうとするとしんどくなるので、ぼんやりと映像を楽しんで過ごしました。
いくつかの並行宇宙が時空間のねじれ、からまりとして、あたかも組紐を編んで行くように・・・(内海昭徳氏ブログ参照)

なるほど、とても深い内容の映画でした。

数日経って感じること、それから、映画を見終わった直後に感じたこと・・・

内容に沿ってよく考えてみたり、解説を参考にしてみたりで、勿論、数日経った今の方がよく理解できてますが、

私にとって、共通した思いとして流れていることは・・・

「安心していればいいのだな・・・」ということ、

内海氏もおっしゃいますように、
「そこに自分が生きる意味があり、この現実で美しくもがきながら生きている理由がある。その出逢いのために、決して出逢うことが出来なかったはずの出逢いのために・・・」
何かしら、どうしてこういう選択をしたのか、

この二者択一では、もう一方の選択であるべきだったのにという後悔など、

迷ったり、悩んだり、苦しんだり、ということがなくなったのはいつの頃からでしたか・・・
もがくことを愉しむだけ・・・

起こることを受け容れて、愉しむだけって、

並行宇宙の存在への絶対的な信頼だったのかな、と思います。
「そうであるなら、存在の状態を「決定づける」認識作用こそが、人間の自由意志の現れと言えるのか?
あるいは、その人間の観測行為すらも、もっとメタレベルの「何か」からしたら、運命論、決定論の中にすでに取り込んでる作用のひとつに過ぎないのか?」

確かにこの作品では、その辺りを追求したくなりますが、自由意志の現れが、結局はメタレベルの「何か」からしたら、運命論、決定論の中にすでに取り込んだ・・・という感じ、私は受け入れたいかな・・・

神の存在とは、そういう愛に包まれてるという安心感・・・かと、
RADWIMPSの声量のある響きも素敵でした。

歌詞も、味わってみたいです。

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